岐阜の美容院「BeautyTOMATO」の社長がなんでもない日々をつぶやきます。だれか聞いて・・・


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5月15日今日のゴミ

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今日も相変わらずゴミを捨てていく人がいますね・・・
スーパーの食品の袋にゴミを一杯入れて2個廃業したビデオ屋さんの裏に捨ててありました
ゴミのベスト3には必ずマックのコップとハンバーガーの包み紙と紙袋が入ります
今日珍しいところでは 紫色のフリースジャケットが捨ててありました
サントリーのポケットビンも捨ててありました
最近は焼酎からウイスキーに流れが変わっているようですね
サントリーのハイボールが人気復活でレトロな趣が
若い人には新鮮なんでしょうか?
こういうものは道端に捨てていくものではないような気がしますが・・・
タバコの吸殻も多いですね・・・
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# by beauty-tomato | 2010-05-15 10:47

今日のゴミ

相変わらず
ゴミは落ちています
ペットボトルや食べ残し
タバコは定番ですね
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今日はテレビのリモコンが新しいですね
(こんなゴミなんで道に捨てていくんだろう)
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# by beauty-tomato | 2010-03-26 12:25

親友ST君のこと 最終章

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僕は新しい環境で日々メイッパい精進していた
ST君もメイッパい新しい仕事に励んでいた

お互いに会う機会は少なくなっていた

ST君に対して 僕の意識の中で 
高校以来 僕と付き合ったことで
変わってしまった彼の人生の方向に対して
申し訳ないような責任を感じていた

自分の決めた方向に対しては
これで良かったのかどうか 迷ったり 
行き詰まったりはしながら 
責任は自分で取ろうと意識はしていた

しばらくして
独立し 商売もある程度繁盛し
紆余曲折を経ながら 
ある程度の結果を出すようになった
当初の目標である
社員で観光バスを一杯にすることを達成した頃

ST君から連絡があり 中津川で久しぶりに会い
飲み明かした
その時 彼の実家へ顔を出して
ご両親にも久しぶりに挨拶をした時

お袋さんが 改まって
「○○ちゃん ホントに ご成功なさって 
 よく頑張られましたね いつもあんたのうわさしてるんやよ
 すごいことやって たいしたもんやねー」
と言われ 自分ではまだまだ全然足りないという意識でいたので
恥ずかしかったが・・・
 「うちの子も あんたと付き合って ホントにヨカッタって
 感謝してるんやよ ありがとう」と言われ

不覚にも涙があふれてしまった

今までご両親に対する負い目が一挙に氷解し
僕の存在が彼の両親によかったと思われていたことが
単純にうれしかった

ST君は ヤ○ハ音楽振興会の重役になっていた

お互いの存在が お互いを導いていたのであろう

僕はジャズという子供の頃からの趣味を
生かすことはなかったが

ST君はそのジャズを仕事に生かした

多感な頃 中津高校へ入学し
たまたま 席が隣になったという偶然が無ければ
かかわりあう事などなかったかもしれない二人の関係は 
親友という関係を超えた不思議な関係を続けている

今にして思えば必然であったかもしれない・・・
いや 偶然の積み重ねかもしれない・・・

しかし お互い何らかに導かれたかのような
この出会いに感謝していることは
間違いない・・・・
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# by beauty-tomato | 2010-02-26 18:35

親友ST君のこと 41

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ST君は新しい職場で活躍を始めた
今までの音楽経験と体験が生かされる職場であった

ヤ○ハ ポピュラーソングコンテスト
略して ポプコン
当時 日本のポピュラーミュージック界を牽引する
すごいイベントであった
八神純子 世良正則 長渕剛etc.・・・・・・
たくさんのユニークな歌手を発掘し世に送り出した

その最前線で彼は活躍していた・・・

あるとき彼と会って話をしていて
「今ねー 面白い歌手見つけたんだ・・・
 北海道のヤツでね・・歌ウマいわけじゃなくて・・・
  いい歌って言うわけじゃないけど・・・
   普通じゃゼッタイ世に出ないタイプのヤツだけど・・・
    面白いと思ってるんだ・・・」
「名前はね 中島って言うんだよ・・・
  性格も変わってるけど なかなかのヤツなんだよ・・・」

と語っているのが さすがヤ○ハ音楽振興会の最前線って
感じで印象的だった

その年の ポプコンのグランプリは
中島みゆきであった

あ~ この子のことを言ってたのかっと
あの時 彼の言っていたことを理解した
こういう人材を発掘していたんだと納得した
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# by beauty-tomato | 2010-02-26 18:32

親友ST君のこと 40

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という事で会社を退職し
すぐに美容室へ見習いとして入店した
姉が愛知県の有名着付大御所先生の美容室で働いていた
その紹介で東京都国立市の美容室へ入店し働き始めた

まったく経験なし 何も美容のことを知らず
無謀な転職であったことをそれ以後気づく・・・
しかし 父親の反対を押し切っての転職である
負けるわけにはいかなかった

普通人が3年かかることを1年でやることを
目標に猛烈な美容技術習得を目指した

国分寺に夜間の美容学校があり
そこに入学願書を提出した

国際文化理美容専門学校という名門である
窓口へ願書を提出すると 窓口の係りの人が
履歴を見てビックリ
大学を出て美容学校へ願書を出す人はめずらしく
渋谷の本校の理事長に連絡すると言うことで
しばし待たされる
理事長が直接面接したいのでしばし待ってくれと・・・

しばし雑談後 理事長が到着 面接が始まった
いろいろこの経緯を質問後
本気でやる気があるんですか?と質問
もちろんですと答えた
めでたく入学し 猛烈な美容修行が始まった

この話は ST君との話とは関係なくなるので
この辺で終了し 後日美容編としてスタートしようと思う

さてST君 
ヤマハ音楽振興会へ入社し 
活躍を始めた

僕も再上京して たまに彼と会う機会が増えた
そこで彼の仕事振りを聞く


そして彼の口から
美容師なんてとんでもない転職をしたんだから
必ず成功してくれ
友達に自慢できる美容家になってくれと激励された

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-26 18:31

親友ST君のこと 39

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ST君はヤ○ハ音楽振興会へ入った

ヤ○ハ音楽振興会と言えば
当時最も大きな話題はポプコンであった
ヤ○ハポピュラーソングコンテスト
新しい日本のポップスを作ろうというコンセプトで
始められた音楽コンテスト
日本のポピュラー音楽界に新鮮でユニークな
多くのシンガーソングライターを発掘し世に送り出した

その最前線に彼は入社した
彼の力を思う存分発揮できる場所を見つけたようである

僕は会社を辞めることを決意した

そして母親の生業である美容師になることにした

自分で起業する業種は何でもよかったが
普通の仕事では起業は難しいので
他人がやらない仕事がイイかと思っていた

子供の頃から母親の美容室は繁盛していた
4~5人の住み込みの従業員を置き 
僕が朝起きた頃には 母親は美容室で働いていた
僕が寝る頃 まだ店にいた
食事などは母親とほとんど一緒にしたことはなかった
賄いのおばさんが食事の支度や掃除をしていた
比較的金銭的な余裕はあったようである
中津川駅前に支店を出したりもしていた
(これは母親が体を壊したので撤退)
この母親がこれくらい出来るものなら
僕がやれば もっと何とかなるだろうと
軽い気持ちではあった・・・・・

入社一年目の春 辞表を出した
先輩のKIさんに相談してのことだった
そしてその会社で7月まで働くことに
辞表を営業の課長に出した時
「えー お前は営業に向いていると思って
本社へ呼ぶ予定だったのに・・・
なんでオカマの修行するんだ・・・?」と言われた
当時男が美容師になるなんていうのは
そんな認識の時代だった

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-26 18:29

親友ST君のこと 38

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ST君が転職したことが動機ではないが
今の会社を辞めて 
小さくても良い 一国一城の主になろう
“むしろ鶏口なるとも牛後となるなかれ”
でありたいという考えが
意識の中で大きくなってきた

車両課の営業という仕事はとても興味深く
こんな若造がイッパシのツラさげて
大企業相手に仕事が出来ると言うことに未練はあった
それに取引業者のタ○タとも良好な関係にあり 担当者が
皆若くとても楽しく仕事が出来ていた

この会社での選択肢は他にもいろいろあった
先輩のKHさんのコンピュータ関係の仕事も
面白そうであった(KHさんから手伝ってくれと頼まれ 
暇を見てコンピュータ室で残業まで付き合ったりもしていた)
(・・・ひょっとしてそれをやっていれば
STさんが社長になったなら僕も何とかなった
可能性は否定できないが・・・)
他には燃料課のガソリンスタンドの責任者という
選択肢もあったが これは断りたい仕事であった

いずれにしても工場に縛り付けられるのは嫌だった

しかし 会社を辞めても 
自分が仕事を起業してゆく職種のあてはなかった
ラーメン屋では無理がある・・・
といって何が出来るわけでもない
あるのは 社長になりたい
目標は社員で観光バスをいっぱいにするゾ!!!
っという“夢”だけであった

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-26 18:27

親友ST君のこと 37

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ST君は
東京にある道路施設関係の会社に就職していた
きっと給料が良くて両親を安心させるに足る
企業であったと想像できるが
なぜその会社を選んだかは定かではなかった・・・
僕から見て 彼にはそぐわない地味な会社であった

その頃 彼とはちょくちょく会っていた
そしてある日 中津川で会った時 
彼はその会社を辞めてヤ○ハ音楽振興会に転職していた
こちらは 学生時代からのつながりで転職したようである
やっと学生時代にやったジャズや音楽に
まつわる仕事につけて燃えていた

僕はその転職には賛成であったが
彼の両親に対して なにか申し訳ないような
後ろめたい気持ちはぬぐえなかった
彼の家に行っても まともにお袋さんの顔が見られなかった

僕は相変わらずの工場での勤務であったが
たぶん近いうちに本社の営業に呼ばれるだろうという
確信はあった
工場にいる先輩達は なかなか本社に呼ばれず
そのまま工場勤めに固定されそうな人も多かった

最初の上司である Hさんもその一人で工場の女性と結婚していた
先輩のKHさんは 工場に始めてコンピュータが導入され
その責任者になって コンピュータのソフト開発を始めていた 
彼からはそのソフト開発の仕事を手伝うように言われていた
(彼は後にこの会社の社長になって今日を迎えるわけであるが
 当時はとてもそんなことは想像できなかった 
 僕はこの工場に縛り付けられるのはゴメンだと考えていた)

本社の車両課の営業は課長のほか5人で構成されていた
直接の上司のKIさんは当時のモーレツ社員であったが
もっと年上の先輩達とは仕事観で温度差があった
車両課の仕事は 新車の生産の立ち上がり時期は
猛烈に忙しく いろんな問題が発生する
しかし 生産が安定すると退屈なルーティーンと化す
接待やマージャンに明け暮れることになる
30歳前後の先輩達は 会社を辞めてラーメン屋でも
やろうかな~ っと言ったりしていた
当時から流行った 脱サラを口にするようになっていた
しかし 脱サラの選択肢がラーメン屋では寂しいと感じていた

さて
倉庫のおじさんたちとの宴会・・・
鍋であった 
セーラー服のめんこい女の子が野菜や魚を
運んでくれていたが 鍋には参加しなかった
見知らぬ男の人も一緒に鍋をつつき 酒を勧められたことは
憶えているが どんな会話をしたか 何があったのかは
全然憶えていない・・・記憶にない しゃべらなかったかも・・・
(メガネに適わなかったのかもしれない・・・)
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# by beauty-tomato | 2010-02-26 18:25

親友ST君のこと 36

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シートベルト倉庫には
夏場は伊勢から漁師のおじさんたち
冬場は岩手県から農業のおじさんたちが
出稼ぎに来ていた

部品の納品は ト○タカンバン方式
納品の帰りの便でカンバンが帰ってくる
それを翌日の便で各工場へ納品する

おじさんたちは倉庫の在庫をカンバンどおり
各工場毎にパレットにつんで翌日の準備をする

ある日岩手から来ているKさんが
他の工場向けのパレットに間違って積込んでしまい
工場で別の車種向けのベルトを組み込んでしまった
輸出向けの車種であった

急遽車両課全員で名古屋港の積込みヤードで
間違って組込んだ車両の発見と
ベルトの回収と組付けを行ったことがある
一応国外へ出た車両の扱いで税関の許可を受けての作業だった
広い輸出車専用ヤードで1日がかりであった

Kさんが責任を感じていた
それで酒を持っておじさんたちが
共同で住んでいるアパートを訪ねた
そこで酒を飲んでKさんが涙を流して詫びてくれた
おじさん達の責任感に打たれた・・・

その後である 
Kさんが
「あなたは次男だそうだЩЭё・・・?? 
岩手へ来る気はёЭб・・・???」
っと 岩手弁で問うた
岩手のおじさんたちは 酒に酔うとしっかり岩手弁で
実はほとんど聞き取れない状態であった

お互いに酒を飲んでいるので ほとんど空返事であった
「岩手か~ 行ってみたいな~」てな返事をした
Kさん達の村の村長の家で養子をΣε○μ×α・・・???
娘はメンコイ子ダ~σμ$♯α・・・?????」

『いいねー 養子でもなんでもёбЭЩ??????』
てな調子で盛り上がり そこで寝込んでしまった

そんなことは しっかり忘れて 
平和な日々が続いた

ある日Kさんたちが ご馳走があるので来てくれと
ご招待があった また酒だなと 一升買って
アパートを訪ねた

そこにはセラー服を着た 可愛い子がいて
見知らぬ人物がいた

あっ!!?と あのときの会話がよみがえった

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-25 17:58

親友STくんのこと 35

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ト○タ自工では 新型車が出た時は
もう次の車の試作が行われている
新型車向け試作部品も極秘で注文がある
それを部品調達課へ直接届けるのが
僕指名になった

部品調達課へ あの課長の所へ持ち込むと
面会室に通され 
課長から部品のスペックの説明を求められた
(タカタの技術者から一応のブリーフィングは受けていたが)
とても課長の満足できる説明など出来るはずはないので
のっけから「勘弁してください」と応じた
それで合格であった
その課長から気に入られたようであった

商社ではちょくちょく担当者を接待する
女子大小路のオネーちゃんのいる店で飲み
中村大門のソープランド(ト○○風呂)へ行き
雀荘(和室の高級雀荘)でマージャンをやる
ここで例のワザを発揮して負けるのである

課長の接待の時は僕も同席するようになった

工場の総務部長
顔は鬼瓦系
設計ミス対応事件以来 
ちょくちょく倉庫事務所へ顔を出すようになった

あの時の対応は早かった
シートベルトのボルトにかませるワッシャーの変更に
適合するものをすぐ見つけてきて数もそろえてくれた
作業の手順もあっという間に伝達して
作業効率のよい治具もいとも簡単にそろえてしまった
さすがにトヨタ系列で鍛えた人物であると感心し
冷えていた僕との関係は一挙に改善した
そして ある日 鬼瓦氏が
「お前はこの工場から 近いうちに本社へ呼び戻されると思う 
工場の女に手を出すなよ」っと

寮の女番長JT
寮の食堂で食事する時 工場の人たちは僕のそばには来ない
JTは僕を見つけると隣で食べるようになっていた
僕の部屋へ仲間数人と遊びに来ることはあったが
二人きりになることはなかった(意識的に避けていた)

大学時代に別れた彼女とのことがひっかっかっていた
接待でおぼえたソープ遊びが気楽でいいと考え
当分素人女性はやめておこうと考えていたのである
それで 給料はマージャンとソープで完全に泡と消えていた

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-25 11:45

親友ST君のこと 34

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シートベルト倉庫は
女性事務員2名
季節労働者のオジさん達が5~6名でやっていた
女性事務員は本社採用が1名 工場採用が1名で
工場採用の女性事務員は僕の監視役っぽかった

季節労働者のオジさん達は
夏場は伊勢の真珠養殖をやってる漁師さん達
冬場は岩手の出稼ぎの農業さん達であった
とてもイイ人ばかりで 
倉庫への搬入と納品の力仕事をやってくれていた

工場敷地内には寮や食堂があり
夜になると寮にいる 男女工員達が敷地内でたむろしていた
工場の従業員さんたちから見ると
僕達本社採用の人間は特別な人のように
見えるようであった

僕はいつも夜9時過ぎまで事務所にいたので
女子工員さんたちは興味があるようで
事務所の周りをうろうろしていた
たまに外へ出て工員さん達と話をして楽しんだ

その中に寮の女番長のJTがいた(タバコ屋ではない)
JTは リーダーシップのとれる
すらっとした賢い子であった
工場のみんなから一目置かれていた


さて
ト○タ自工 部品調達課 課長からの緊急電話

元町工場で新型2代目マークⅡの生産立ち上げであった
旧型マークⅡの生産終了でシートベルトの在庫を残さない
ように調整が終わって
新型用シートベルトの当面必要な在庫の確保に追われ
やっと一段落したところであった
もちろん ト○タカンバン納入方式であったが
欠品ストップという身の毛もよだつ情況を
回避するため 万全の在庫の確保は必要であった

欠品ストップとは 
部品納入業者がカンバンどうり納入すべき在庫を欠品し
自動車の生産ラインをストップさせた場合
莫大な損害賠償を業者に請求されるというペナルティー

新型マークⅡは従来黒だけであったシートベルトが
5色に増え まだどの色がたくさん出るか分からない
状態でのスタートであったため 各色の在庫の管理が
大変であった

そこで電話の内容は
シートベルトの車体への取付金具の不具合による
ドアへの干渉を防ぐための緊急変更と言うものだった
(つまりベルトの金具がドアに当って傷をつける)

それで生産ラインが止まっている
先方の課長も焦っていた 
こちらも思いもかけない不具合であわてた

では緊急変更箇所を教えてくれと言うことで
僕独断で緊急対策を始めた
シートベルト不具合箇所の変更に人手が要るので
まず工場長と総務部長に人を貸してくれとお願いした

不具合箇所は 取り付けボルトのワッシャや緩衝材を薄い
形状のものに取り替えることで解決することであった
それで材料を総務部長に探してもらい
誰にも分かるように大きな紙に 変更箇所を書いて
すぐ作業に取り掛かれるようにした
工場のラインはストップし工員さん達全員で
2~3万本あるベルトの変更作業をスタートした

その間に先方課長には午前中だけ時間をくれと依頼し
この不具合の原因はト○タ側の設計ミスによる
不具合であることを確認することに食い下がった 
なかなかそれを認めようとしなかったが
執拗に食い下がった

そして改修が出来たベルトを乗用車で工場のラインに
少量づつ横付けして納品して 
ラインストップを1時間で解消させた

そのことで課長も設計ミスであることを認めた

すべての作業を午前中で終了した
タカタの工場にも変更箇所の連絡をし
仕掛り品と在庫と対策部品が調達できるまでの
商品はこちらが引き取ることで担当者と合意した

工場長と総務部長と全員にお礼を言ってその場を収めた
その頃 やっと本社営業課長と連絡が取れた
それで 独断でやったことのすべてを報告した

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-25 11:41

親友ST君のこと 33

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学生時代 マージャンは上手い方だと思ってました
そんなに高いレートではないですが
賭けマージャンもやってました
社会人とやっても そんなに負けないし
かえってうまいねーなんて言われてました

ところがこの会社へ入って先輩達とマージャンやると
コテンパンにやられました
何回やっても 歯がたたず
給料を全部巻き上げられました

ある日マージャンが終ってKIさんが
お前 大学ではうまいと思っていたんだろう
なんでこんなに負けるかわかランだろうと言われ
うなずくと

あのなー と言うことで 解説が始まった
まずパイ一緒に積もうと言って
2人でパイを積み上げ
サイコロ振ってマージャンをやるように配パイをした
そして驚いた
配パイしただけで 牌がそろっていて リーチの状態である

こんなヤツらとマージャンやってるんだぞ・・・っと
積み込みのワザを持っている!
こんなすごい人見たこと無い・・・

勝てるやつは 負けることも出来る
商社の営業マンとしてはこれは必要なワザだ
覚えとけよ っと言われた
なぜ必要なのかは また後日


さて
シート1台分のレザーの必要量を割り出し
生産台数に対応したレザーの支給量と
レザーの発注予想を外注課で出せるようにした

従来 工場の総務課で慣習で出していた
レザー発注は 変化するわけであったが
変化しなかった・・・ が

後日
僕の知らないところで 
本社と工場で話がついたようで
突然 発注と支給は正常化した

それ以来 僕に対する工場長と総務部長の
態度が一変し非情に冷たい関係になった

僕はいつでもこんなところ辞めてやる~
といった態度で自然に振舞っていた
設計室の先輩や僕のTY大学2年先輩のKHさんが
心配してくれていた

KHさんは父方の親戚で やっぱり大臣のWE氏の
紹介で入社していた(Kは僕と同姓であった)
(後日譚であるが 
 先日年金の調査でこの会社の年金の
 ことを調べるため ホームページを開いたら
 ビックリ このKH先輩が社長であった
 会社概要を開いたら社長の写真に見覚え
 あっツツツ・・・・ これはひ○○ちゃん・・・ダ)
KH先輩は 大臣のWE氏にこの会社を紹介されて
入社したという っと言うことは
丸紅でも日商岩井でも入れてやる
と言ったのは ホラだったのか・・・

ということで冷たい逆風の中
3ヶ月目にはシートベルト倉庫の管理へまわされた
当時3点式シートベルトが乗用車に標準装備になった時期である
それまでアクセサリー扱いであったシートベルトが
大量生産されるようになり 取り扱い量が飛躍的に増えていた
当時トップメーカーが タカタであった
他に数社あったが
僕の会社が扱ったのが タカタである
タカタは全メーカーへシートベルトを納入していた
トヨタはそういう会社を嫌っていたので
トヨタへ納入実績のあるうちの会社を通して納入していた

トヨタ本体とは 部品調達課が窓口で
そこの課長は ○阪大学工学部卒のやり手課長であった
たまに工場へ顔を出し 
顔を出す時は営業課長か先輩のKIさんが出迎え
いろいろ世間話をして帰っていった
帰りには 工場の直営ガソリンスタンドで
タダでガソリンを入れて帰っていった
嫌な感じであった・・・

ある日 その課長から緊急連絡があった
ちょうどその日は 課長以下営業全員
東京へ出張して留守であった

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-25 11:29

親友ST君のこと 32

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大学を卒業し サラリーマン生活にはいる
父は 息子に大学を卒業させてホワイトカラー族に
することが夢だったので
兄とともに父の夢をかなえた事になる

会社は名古屋駅前の大名古屋ビルチ"ング6Fにあった
(なぜかビルチ"ングであった)
丸○株式会社 商社である(丸紅の子会社で丸紅ではない)

繊維課 燃料課 車両課があった
名古屋地方は繊維関係企業が多く
それを扱う商社として発足し燃料の卸と
それらに関連して自動車関係へと販路を広げていた
当時 高度経済成長の真っ只中で 活気があった
繊維関係はガチャマンと言われ景気がヨカッタ

僕は 車両課に配属された
車両課は ト○タ自動車関係他全メーカーと
シートベルトや車のシートの取引をしていた

豊田市にランドクルーザー系のシートを造る
工場があり そちらの寮に入った
本社の車両課の営業のメンバーは
有名どころの私立大学の出身者が多かった
東京六大学系の私立大学や
名古屋ではN山大学出身者などが多かった

営業の直属の上司はN山大学出身のKIさんであった
工場では外注課に配属され 
上司はM治大学卒のHさんであった

工場はランドクルーザー系FJ40FJ60
のシート造る荒○車体の下請工場であった

九州などから集団就職で来ている女性職工さん達が
いるため立派な寮があった
食堂もあり そこで食事をとった

寮には年頃の女性が多く
数日経ったら工場の近くのアパートへ移った

少し勤めて見ると
工場と本社の営業とでビミョーな違いを感じた
外注課は営業直属で 工場の事務系と独立しており
工場長や工場の総務課とは対立していた

僕の外注課での最初の仕事は
下請けに現物支給するシート用レザーの量が 
生産量に比べ支給量が多すぎることの解決だった
これを上司のHさんから内密に指示された
Hさんは本社から工場へ配属された社員であるが
Hさんの周囲は工場の職員で固められ
身動きが取れない状態だった

それで内密にシートの生産量と原材料の必要量を
割り出すことであった
(工場には意図的にそれをうやむやにする慣行があった)
それで 配属早々 Hさんから指示をうけ
何も知らない僕がそれを担当した

まず工場の設計部の先輩達と仲良くなり
シートの設計図を見せてもらい
シート一台当りのレザーの必要量を割り出した
それを調べる過程で 工場長や総務課から妨害が
入りだした

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-25 11:27

親友ST君のこと 31

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4年生の秋を過ぎ
ほとんどの学生は進路が決まっていた

TY大学の友人達は・・・

御曹司NM君は自分の親の会社に就職

開業医の倅YM君はとりあえずイギリスへ
(留学ではなく見聞を広めに行くということであった 
彼は帰国後 麻布で日本で最初のマニアックな雑貨商
スポーツトレインを創業 雑誌などで取り上げられ
その道で知られた人物となり
巨匠 黒澤明監督に気に入られ
黒澤作品多数に出演する俳優となった
このイギリス遊学は無駄ではなかったようだ)

他に剣道部NH君は一部上場有名企業に就職が決まった

一方 ST君も道路公団関係の地味な会社に就職が決まっていた

決まっていないのは僕だけだった

当時 母方の親戚に国会議員がおり 
(岐阜県選出 衆議院議員 WE氏であった)
父はその後援会で親戚と言う立場で応援していた
WE氏はその時期 建設大臣をやっていた
それで 僕の就職をその大臣に頼むことになり
父と国会近くの議員会館に大臣を訪ねた

大臣に面会し WE氏は気さくに
「どんな会社へ就職したいんだね?」
「土建屋(ゼネコン)か商社ならあるけど
春に来れば 丸紅でも日商岩井でも
入れてやれたけどな
この時期だと 岐阜にある大○本土木(先日倒産)か
丸紅の子会社の丸○という商社なら話をしてあげるよ」
と言うことで 丸○という商社を紹介してもらって
面接を受け 就職が内定した

結局サラリーマンの道を歩むことに決まった

その後 僕もST君も早い段階でその会社は
辞めることになる・・・

つづく

思ったより長く続いています
毎日 思いつくまま綴っていますが話がつきません
まだまだ感動の結末にはたどり着けませんが
今しばらくお付き合いください

皆さん 応援のコメント よろしくお願します
読まれた方は 一言でもよろしく

初めて読まれる方は 遡って読まれることをお勧めします

この話は事実に基づいて書かれています
多少面白いほうへ脚色する場合がありますが…
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# by beauty-tomato | 2010-02-24 08:50

親友ST君のこと 30

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学校でゼミの専攻は労働法でした
このゼミは高校のホームルームのようなもので
学校が決めてきたものでした
授業もホームルームみたいに
アットホームで同級生の集まりっぽかった

そのゼミの先生が 全共闘支持派であったため
機動隊導入後 学校開放とともに辞めさせられて 
新しいゼミに変更になりました
(まじめで若いイイ教官でした)

新しいゼミは契約法で 
中年で温和な教官に替わりました
(これも学校から指定されました)

その先生からは 契約法と手形小切手法を習いました
(僕は刑法は取らず 主に民法を履修していました)
手形関係の知識や手形にまつわる犯罪についての
知識はそこで学んでいました


手形・・・・・
話は戻るが

印刷機や日経タイプライター等を納品し
その決済は手形で行われた

悪い予感・・・

そして数日後

その納品先の企業はつぶれた
つぶれたというより 夜逃げっぽかった
ある日その会社がもぬけの殻になった

明らかに計画倒産
いや 取り込み詐欺であった

取り込み詐欺とは
最初からだますつもりで
仕事を大きくしたい人間等に近づき
大量の発注をにおわせ
信用させるため 小口の発注を何度か行い
そのつどキチンと支払いをする
 
そして大量の機材を発注 納品させ 
その機材を売り払って換金し
逃げる
卑劣でけっこう大掛かりな犯罪である

それに引っ掛かった
恐ろしいものである
社長から
「これで 僕も終わりだ! 僕は身を隠すので 
もうこの事務所へは顔を出さないように
僕にはかかわらないほうが君のためだから」
と言うことで
社長とは再起を誓って 別れた

つづく

後日譚であるが
数年前 神田神保町へ用事で行った折
久しぶりにその界隈を歩いて
自然にその事務所のあった場所へ足が向いた

その事務所のあったビルには
○○印刷所と書いてあった
○○は彼の社長の姓である
中をのぞくと 
その社長が印刷機を動かしていた・・・

なぜか 声をかけることは出来なかったが
健在で仕事をしている姿を見てうれしかった・・・
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# by beauty-tomato | 2010-02-24 08:48

親友STくんのこと 29

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そんな騒がしい時代ですが
そんな喧騒とは無縁な大学生活を
続けていました

アルバイトはいろいろやっていました
3年生終盤から4年生にかけて
神田神保町の印刷機械の修理販売を手がける会社で
アルバイトをやっていました 
このままこの仕事で
将来独立まで持って行こうかと思うようになりました

一般のサラリーマンになる気はなく
必ず独立して社長になるという気持ちは
抑えられませんでした

印刷機と言っても 当時はまだ孔版印刷が
小さな印刷屋さんでは主流でした
孔版印刷というのは
早い話が 学校で使っていたガリ版印刷の
原紙をタイプで打ったもの
タイプも日経式タイプライターといって
全漢字と仮名 数字 アルファベットが
活字で盤面にそろっていて
機械で1つずつ拾って原紙に打ち付けて
原版をつくり 輪転機で印刷するという
原始的なものでした
オフセット印刷も始まっていました

そのタイプライターと輪転機の販売修理の仕事でした

そこの社長と2人でやっていく予定でやっていました

バイトでその機械の修理をまかされて
機械をバラして石油でキレイに洗って組み立てる
終わってみるとネジが1~2本余ったりしてました
が機械は好調に動いていました

僕は学校の進路指導関係の
就職活動はゼンゼンしていませんでした
就職活動のための学内試験も上位でしたし
成績で 優 の数が25以上あると
学長が推薦状を書いてくれるという噂でしたが 
優の数は23個でした

僕が4年生の秋頃
僕が一緒に仕事をやると言うことで
社長は張り切って
大きな仕事を受注してきました
かなり無理をしたようで
(社長の知人は その取引に反対していたようでした)
かなり借金をして機械を仕入れ 
納品しました・・・
その納品に一緒に行きました
政府機関の印刷部門で
てっきり信用して 社長とやりましたね と
祝杯を上げました

しかし・・・・・

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-23 09:07

親友ST君のこと 28

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大学は1年生の頃は一年間
まともに授業がありました

2年生になって春 新学期の履修届けを提出後
それを待っていたかのように
全共闘派の学生達によって学園封鎖が行われた
入り口は机や椅子でバリケードが築かれ
学生と学生運動シンパの先生達だけ出入りが許された

学校は混乱し しばらくして大学から
履修届けを出した教科について
教科書の指定と学習方法の連絡が来た

この封鎖は1年目は秋まで続いた

学生運動には多少の興味はあったが参加せず 
アルバイトとマージャンと読書と遊びの毎日であった

暇になるとマージャンの面子を探しに学食へ行った
学食にはいろんな学生が仲間を探しに来ていた

ある日 名前を忘れたが ある同級生 
最初のうち何度か顔を合わせたが
最近見かけなかった友人が寄ってきた

おう!久しぶりと言うことで話し始める
彼はいまピンク映画の助監督をやっていると言うことだった
(あの当時 ピンク映画とはAVほど過激ではないが 
その手のマイナーな映画)

男優やらないか・・・?面白いゾ・・・ っと
僕は俳優より 造るほうが面白そうだと言っておいた 
チョッと心引かれたが ヤメた

そんな学園封鎖でまともな授業はなく
試験もすべてレポート提出 

秋には機動隊が導入され 封鎖は解除され
試験が実施された
まともな授業をやっていないため
試験には教科書持込可 とか
法律の試験は六法全書持込可なので楽だった
六法全書持込可なら答案はとりあえず裏まで書けたので
成績は悪くなかった
つくづく法学部でヨカッたと思った
法律の考え方も 論理的で好きだった

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-23 09:05

親友ST君のこと 27

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ST君との関係はもちろん続いていた

ジャズ研の仲間を紹介してくれたり
コンサートや学園祭にも誘ってくれたり
僕のアパートで酒を飲んだりしていた
当時酒はトリスかニッカ
サントリー角瓶は高級品だった
飲んだ次の日は頭がガンガン痛かった

ST君の友人は男友達ばかりであった
会話にジャズメン符丁がちりばめられ
別世界にいるんだなーっと実感するも
軽率な感じは否めなかった

女友達を紹介してくれと言う僕の依頼に対しては
一度も答えることは無かった
A学院大学でジャズやれば絶対モテルと言うのは
幻想であったようである


彼はジャズへの情熱は熱く
銀座ヤマハのジャズ教室へ通っていた

しかし彼の情熱と才能の間に多少のギャップ
があったことは否めない事実であった

アドリブはイマイチであったが
勢いと情熱でカバーする演奏でうらやましかった

ある日 僕のアパートの大家さん宅へ
ST君の実家から電話があった
ST君と連絡がつかないので
僕のところへ電話したとのこと

実は今日 ST君の家が火事で焼けてしまったので
このことを伝えてくれとういことであった
とりあえず A学院大学へ行って彼を探してみた
何とか探し当てた頃には 彼にそのニュースは
伝わっていた

後で気づくことであるが
僕のジャズのレコードは全部
焼けてしまった

これで完全にジャズとは決別した

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-22 21:50

親友ST君のこと 26

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ジャズのことはすっかり忘れて
バイトとマージャンに精を出す毎日であった

大磯ロングビーチのバイトでは
毎日仕事が終れば マージャンたまにナンパ
という怠惰な生活であった

宿泊と食事つきなのでバイト代は
残るはずであったが
ホテルの社員食堂の定食では 
若い学生達には足りるはずも無く
食うことと遊びに金は消えていった

マージャンに飽きると みんなで
海岸や駐車場へカップルの監視と指導に行った

ロングビーチの広い駐車場には何台か車が駐まっている
カップルが乗っている車はすぐわかる
ガラス窓が内側から曇っている
もうすでに揺れている車もある

学生達はすでに日焼けして真っ黒で
闇にまぎれるのは容易である

そんな車にソーっと近づき 
車内が盛り上がるのを監視しながら待つ
盛り上がった頃合を見計らって
みんなで車のバンパーに手を掛け
一斉に持ち上げ 上げたところで手を放す

車は見事にドーンと落ちると
車の中から飛び出すヤツ
窓を開けて 間抜け面を出すヤツ
そんなバカやって遊んでいた

他の売店のアルバイトの女子学生と付き合ったり
夜海岸でデートする時は
細心の注意を払ったことは言うまでもない・・・

その後 そこで知り合った女子学生と長く付き合ったが
これは この連載とは関係ないので 省く

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-22 21:48

親友ST君のこと 25




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練馬のアパートに兄弟2人
生活費は仕送りとアルバイト
2人の東京生活では仕送りも不足ぎみ

いろいろアルバイトをやったが
一番長くやったのが
池袋西武デパート2F紳士服売り場の
ヤングカジュアル売り場
問屋さんの派遣店員として売り場に立つ
朝開店とともに店に入って名札をつけて
授業のあるときは売り場を抜け出して
学校へ行って 終ったら帰ってきて
名札をつけて売り場に立つといった感じ

夏休みは2ヶ月まるまる大磯ロングビーチで
アルバイトをやった(大磯はプリンスホテル系
つまり西武デパート系で夏場だけリゾートの
西武デパート売り場が出現する)
売り場の責任者からやらないかと声がかかった

一軒家を借りてそこに学生が十数名が寝泊り
食事は大磯プリンスホテルの社員食堂で食券がでる
(軟派し放題付き)
つまりバイト代はマルマル残る計算であった
売り場は Tシャツ 水着 浮き輪 おみやげ物等
販売努力の必要ないアイテムばかり

大学が夏休みに入る前から 売り場の準備作業に
大磯ロングビーチに入る
売り場を掃除して商品の陳列などオープン準備
宿舎の一軒家も掃除して学生の受け入れ準備
一部屋はマージャン室として確保
ジャン卓ジャンパイも3台ほど準備して抜かりは無い

数日後学生アルバイトが集合した
いろんな大学から集まって初対面も多い
まずはマージャンから交流が深まる
あっという間に打ち解ける 
そして共同生活が始まる

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-21 09:25

親友ST君のこと 24

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さて当時の大学事情はと言うと

日米安全保障条約が1970年をもって
毎年の自動延長になると言うことで
左翼政党や左翼系知識人達の扇動に動かされた
学生達が先鋭的左翼の一端を担い
世の中が騒がしくなっていた

全国各地の大学では学生運動が活発化し
ベトナム戦争反対運動も絡めて
多くの大学で学生集会やアジ演説が盛んに行われていた

僕の入学したTY大学では
白山校舎の中庭に アジ看板が設置され
ワレワレハは~当局の欺瞞的…と言う
ステレオタイプの演説が行われていた

僕はベトナム戦争反対にはシンパシーを感じながら
基本的にはノンポリ(ポリシーの無いこと)
を貫いていた

しかし マルクスの資本論やレーニンの共産党宣言などは
一応本箱には入っていた
資本論は始めの数ページを読んで 読破することはあきらめた

理想的社会のあり方として コミュニズムに関心はあったが
日本が社会主義国になることには否定的であった

そして大学は学園紛争の舞台として
学生による学校封鎖が各地の大学で頻発した

TY大学のある文京区は大学のメッカで
日大明大東大などほとんどの大学は
学校封鎖が行われるようになった

僕の交友範囲は広く
お坊ちゃん方から 学生運動家 
体育会系剣道部と多彩であった
学生自治会による学園封鎖と
機動隊導入による封鎖解除は繰り返された

封鎖解除された後の教室は催涙弾の影響が残っており
目が痛くて 涙が出て授業どころではなかった

体育会系のN君と一緒に肩を並べて歩くと
学ランの学生から 「オッス」・・・と
硬派な挨拶をされ 快感であった





つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-21 09:21

親友ST君のこと 23

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僕がまだ大学が決まらず
右往左往している時
ST君はA学院大学でジャズをやる気マンマン
○○ちゃんのレコード貸してね と
僕の大切なジャズレコードを全部
彼の家へ持っていってしまった

こちらはそれどころではなく
自信喪失もあり 気にかけていなかった
自信喪失というより才能がないと思っていた
吹奏部やってるときから 気づいてはいたが
不器用である

話は変わる
その年 TY大学へ入学した新入生は3千数百名
学生総数は1万人を越えるマンモス大学であった

入学して少したった頃
学年別に実力テストがあった
社会的一般常識と英語と国語の試験であった

軽い気持ちで受けた

結果学年で97位であった
まずまずの成績
その頃から 少しずつ自信は回復していた
しかし 
その気持ちはジャズに向かうことは無かった
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# by beauty-tomato | 2010-02-21 09:19

親友ST君のこと 22

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TY大学は どちらかと言えば
硬派な感じの大学です

大学野球は 東都大学リーグ
人気の 東京六大学 VS 実力の東都
と言われていました
土日月は神宮球場は東京六大学が使います
東都大学は 神宮第二球場です
神宮球場で早慶戦などやっていたらたまりません
第二球場は TY大学VS亜細亜大学
観客も応援団が観客席のほとんどを占めて
一般学生は隅のほうで応援してました
とても地味で硬派な感じがたまりませんでした

友人で 1年生にして 全国大学剣道選手権大会
第2位 NK君がいました
彼と学食で食事していると忙しい
食事中 突然立ち上がると 押忍(オッす)
と大きな声で敬礼 ビックリでした

彼は剣道で大学に来ているので
勉強はサッパりでした
英語の時間 ONE が読めない オネ!!!
ビックリしました

一説には試験では 名前の欄に 剣道部誰々
全国大会第2位と書けば
白紙で出しても単位はもらえるという噂でしたが

僕の見たところでは 
それはデマだったような気がします

試験には苦労していたようで
いつも僕のところへ聞きに来てくれました

例の軟派な友人たちも
試験の時はみんな僕のところへ集まってました

授業はけっこう出席していました

青森から来てるI君
津軽弁が抜けないので
なかなか会話が成立しなかった
彼は真面目な学生で司法試験を目指していた
ある日 第二外国語のフランス語の授業で
先生に当てられて 教科書の購読
先生が
「お前はフランス語もなまるのか~」
教室が大爆笑でした

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まだまだつづきます
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# by beauty-tomato | 2010-02-19 21:09

親友ST君のこと 21




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もちろんST君との親交は続いている

新宿ピットインへはST君に誘われてよく行った
ある日 ジョージ大塚トリオに日野皓正がゲスト出演
当時の日野皓正は 現在のスタイルとはまったく違い
今のようなディジー・ガレスピースタイルではなく
IVYスタイルで髪からスーツまでコーディネートされ
硬い感じで演奏していた
もちろん演奏はメチャクチャ上手かった
(いまのスタイルと違う演奏でした)

アメリカへ発つ壮行会にも一緒に参加した

ST君は渡辺貞夫教室で日野皓正と
一緒に学んでいる同門のため
日野さんと呼んで親しく話を交わす姿が 
まぶしかった・・・

僕はと言うと
お坊ちゃん方と新しい世界にのめり込んでいた

新しい友人たちは HONDAS600や
いすゞべレットGTで
学校へ来るお坊ちゃんぶりだった

彼らの彼女はモデルとか
今まで見たことも無い
女友達であった
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つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-19 20:58

親友ST君のこと 20

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ST君のことに触れなければならない

彼はA学院大学に入学
迷うことなくジャズ研へ入部
ジャズの道を歩み始める

当時 
渡辺貞夫がバークレー音楽院を優秀な成績で卒業
日本に本格的なジャズ理論と奏法をもたらした時期である

それまではアメリカのジャズプレーヤーの模倣から
始まった日本のジャズは
渡辺貞夫によって新しい時代に入った

渡辺貞夫は
銀座ヤマハビルにおいて
ジャズの理論と奏法についての教室を始めており
プロプレーヤーや学生達に教えていた
ST君はその生徒となり理論と実践を学んでいた

僕は自信喪失・・・
大学で友人になったNM君は
高校時代 ビートルズのコピーバンドをやっており
ドラマーであった
二人でTY大学のジャズ研を覗きに行くが
先輩の演奏を聞き 怖気づく
まったくの自信喪失でジャズを捨てる

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-19 20:55

親友ST君のこと 19

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TY大学の試験は3月13日
ほとんどの大学の入試は終って
多分入試の最終電車といったところか・・・

最終電車というのは
いろんな人が乗ってくるものです・・・

そしてみごと合格!
法学部であった

気持ちの中では
ST君を裏切ったことへの後ろめたさだけだった

僕は完全な自信喪失状態であった

その年の中津高校の大学合格者
有史以来 初めて 恵那高を超えたと
進路指導の先生が言ったとか言わなかったとか・・・
確かに東大医学部からナンバースクール
国公立 有名大学 医学部とか
目白押しでした

僕は受験失敗組でしたが・・・

僕の親族では 兄が最初の大学入学者
僕は兄より多少成績がよく
親族の中では期待の星であった

父親は海軍で一兵卒
復員後は 出世とは無縁の会社勤め
父の夢は 息子を大学に入れて
ホワイトカラーにすることでした

学校生活は楽しいものでした
すぐに新しい友達もでき
遊びとアルバイトとマージャンに明け暮れる
生活でした

初めてできた大学の友達というのは
ある会社の御曹司 NM君
(現在も親友として付き合っている)
ある開業医のデキの悪い息子 YM君 
(後に黒澤明監督作品に多数出演する俳優)
ある日本を代表する上場企業の重役の甥 IM君
(現在消息不明)
代々神田でトンカツ屋を営む老舗の倅 HY君 
(ガンにより他界)

みんな裕福な家庭の息子達でした

いままで狭い世界で付き合ってきた
田舎の子たちとは別世界の人たちでした

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-18 21:21

親友ST君のこと 18

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今にして思えば
この流れは必然だったかもしれない・・・

予備校の願書を持ってT先生の所へ行くと
先生は意外なことを言った

K(僕の姓)
いまここにTY大学の願書がある
応募の締め切りは明日だ

このままこの願書に名前書いて
直接窓口へ提出しろ・・・と・・・

(先生は僕の性格を知っており
浪人しても 多分遊んでしまうだろう・・・
なら 今年受験して 入れるところへ入った方が
得策だと考えたのかもしれない)

まったく自信喪失していた僕は
浪人しても来年の受験を成功する自信は無かった

その夜 両親に相談して
金を出してもらい
翌日には新幹線に乗って東京に向かった

TOではじまりYOで終る名前の大学
真ん中にはKは無い
当たり前ですね・・・・・

白山の都電の駅から歩いて大学へ向かう途中
向うから見覚えのある二人連れがこちらへ向かってくる

SS君と兄のSJさんであった
SJさんはTY大学2年生(兄と同級)
当時流行のアイビールックでカッコよかった
VANジャケットのトラディショナルな
コーディネートであった
(若干の軽率な感じは否めないが・・・)

そして SS「○○ちゃんどうしたの」
僕「願書出しに来た」
SS「僕も今出してきた」

法学部であったが・・・
何学部でもよかった・・・

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-18 19:37

親友ST君のこと 17

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渋谷駅からでた学生服の黒い集団の塊は
A学院大学へ流れ込んでいった
この時点で平常心ではいられなくなった

咽は渇き 頭は真っ白状態
試験場へ入ってますますアガッた状態で

周囲は KO大学受けてきた とかW大学・・・
そんな話題で 完璧にその場の雰囲気にのまれていた

試験が終わった時点でA学院大学はあきらめた

そんな精神状態で 滑り止めも落ちた

完全に自信喪失状態に陥っていた

ST君はA学院大学と
東京六大学のM大学も合格しており
彼はA学院大学へ行くと決めていた

僕は浪人するつもりで予備校の願書を用意して
中津高校の担任のT先生の所へ行った
そこから思わぬ展開が始まる・・・

つづく

励ましのコメントよろしく
かなり力はいってきました・・・
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# by beauty-tomato | 2010-02-18 19:35

親友St君のこと 16

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当時 大学のジャズシーンでは
W大学のハイソサエティーオーケストラ
がもっとも有名
KO大学のニューサウンドオーケストラと
双璧をなしていた

略して ハイソ には あのタモリも
在籍していたらしい

ST君はW大学でも行けそうでした

彼は大学で一緒にジャズやろうという約束を
忠実に守って
僕の合格圏内である A学院大学まで
志望校を落としてくれていた

実際 東京六大学系の私立大学も合格していたが
そちらを捨てて A学院大学に合わせてくれていた

しかし・・・

つづく

このあたりが前半のクライマックスです
応援よろしく
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# by beauty-tomato | 2010-02-18 09:25

親友ST君のこと 15

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その当時 
池袋~渋谷間には
トロリーバスが走っていた
乗車賃15円(山手線で渋谷へ行くより安かった)
路面電車も到るところを走っていた(15円)
今ほど地下鉄はなかった

僕の第一志望校は
渋谷区青山にある A学院大学 経営学部

模擬試験では合格圏内

ST君は滑り止めで A学院大学 経済学部

何とかなるだろうと軽い気持ちで
入学試験当日を迎えた

経営学部定員100名 競争倍率39倍
経済学部定員100名 競争倍率43倍

池袋~渋谷 山手線で行く(トロリーでは時間が読めない)
新宿あたりから学生服をきた高校生らしき姿で
電車はいっぱいになる

ひょっとして他の大学の入試があるのかな?
くらいに思っていた

電車が渋谷に到着すると
その学生服の黒い集団が黒い塊となり
いままでこんなにたくさんの学生の塊を
見たことがない…ほどが
いっせいに246方面に移動してゆく
えっ・・・・・・・・・・・・・・?????

これみんな A学院大学の受験生なの・・・?
ガーン!!!!!!!という衝撃であった

僕はなんと言う田舎モノであったことか・・・

東京へ来てから
うすうす感じていたが
A学院大学は人気の大学なんだ・・・
田舎モンの私は そんな初歩的なことも知らず・・・

模擬試験でその大学を第一志望にする受験生は・・・・
上から降りてくる 滑り止め受験生に蹴散らされる
と言うことを 試験当日に思い知らされた

つづく
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# by beauty-tomato | 2010-02-18 09:20